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みくにコラム9月号「惻隠の情」

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 連日児童虐待やDVの報道が後を絶たない。いつからこの国は弱者に向けて暴力を振るうような情けない人間を抱える国になってしまったのだろうか。
 人間は元々「惻隠の情(=可哀想な人を見て放っておけない気持ち)」を持っていると思うのだが、それがここぞという時に出てこない人がいることは誠に残念である。自分の経験から言うと、かつては喧嘩をしていてもある程度やり合っているうち、これ以上やるのは悪いと途中で思い、どちらともなく手を出すのを止めたものである。止める頃には何に腹を立てて喧嘩が始まったのかもよく分からなくなっていたものである。自分より弱い相手や女子に手を出すことはタブーで、どんなにえげつない嫌がらせや暴言を吐かれたとしても手を出すことはいけない。もし実力行使しようものなら、たちまち「男らしくない弱い奴」というレッテルを貼られかねない空気があった。そうした空気が抑止力になっていたこともあるが、「弱い者いじめをする者=卑怯な奴」という倫理が厳然と存在していた。
 しかし今はどうであろう。大人達はそれぞれの立場において建前として「弱い者いじめは駄目ですよ」というばかりである。一応のアプローチをした(例えば全校生徒へ向けてしないよう呼びかけた等)というアリバイ証明は何の解決にもならない。事実を解明すると共に被害関係があるならば安全を保障するための具体的な策を講じる必要があると思う。大人の本気を子供に感じさせ、「このまま続けるのはマズイ……」と思わせる必要がある。「大人はどんなに調べても分かるものか」「大人をちょろまかすの何てことない」「何を相談しても結局どうにもならない」では事態は一向に良くはならない。起こした結果に対する責任は子供でもとらなくてはいけないことを大人は示す必要がある。 
 しかし、それはあくまで対症療法である。被害が広まらない環境を作ったり、責任を課すことで抑止したりすることは重要ではあるが、根本的解決には全くならない。人間の心根はそう簡単に変わるものではないからだ。悪心が目立たないところに潜伏するだけで無くなったわけではない。
「非行の火種は3歳から」とよく言われるが、それは本当だと思う。3歳位になるとパーソナリティの骨格がだいぶん見えるようになってくる。意地の悪さ、優しさ、思いやり等が言動から発露する。10歳位までに脳の大部分が形成されることが脳科学の研究より分かってきているが、特に幼児期の環境は重要な意味を持つと考えられる。幼児期に多くの人の愛情を感じ、集中して何かに取り組むことを楽しみ、音楽に親しみ、良質な言葉のシャワーを浴びることが人格の涵養のために必要であることは既に様々な場所での取り組みにより証明されている。幼児は論理的思考より感じ取ることが得意である。だから、言葉で善悪を教えるのはとかくシンプルでなくてはならない。「お友達をたたくのはダメ!」というように。「こうすると相手がこう思うので可哀想でしょう!」と先回りした叱り方をしても相手の立場に立ち、想像と論理を働かせて慮る芸当は幼児の得意とするところではない。日々栄養となる環境・時期に適した課題を与えることが、健やかな人格を培うため、非行の火種となりかねない余計な枝葉の剪定のために重要と考える。
 幼児教育に携わる者に出来ること。それは、あらゆる手段を講じて「惻隠の情」が即発露するような人格を涵養することである。そのような教育を受けた彼らがやがて大人になり、周りの人達・社会のために時にクールでありながらも底に優しさと情熱を宿しながら行動出来る大人に成長することを願う。地道ではあるがそのような取り組みを各教育機関が行っていくことが虐待やDVを減らす漢方的処方だと思う。

御調みくに幼稚園

代表  玉崎 勝乗