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【4月園長コラム】 園の実践の背景にある考え方

園では毎日日本の詩や漢詩、『枕草子』や『平家物語』などの日本の古典、諺や百人一首を素読しています。素読とは意味を問わずに声に出して読むということです。それも読み仮名がふっていない漢字の文章のまま何度も読んでいきます。最初は先生の読むのを聞くだけですが、そのうち先生と一緒に読むようになり、やがて子供達だけで読めるようになります。

 
その光景の断片だけを見ると、まるで学校の授業のようですが、性格は全く異なります。中学校や高等学校で習うのは《学問》ですが、幼稚園で行なうその活動は【集中力】【人格の基礎】を養うための《顎問》です。【集中力】は漢字と呼ばれる図形を見ながら、先生が指す字を追いつつ読むことで養われます。【人格の基礎】はその言葉の持つ響きの美しさによって養われます。良質な言葉を何度も繰り返し声に出して読むことで身体感覚にまで落とし込むこの手法は、江戸時代の寺子屋でも行なわれ、その効果は既に実証済みです。

 

大切なのは、「言葉そのものを味わう」「意味に言及しない」ことなのです。素直にあるがままに受け入れる幼児期に良質な言葉のシャワーを浴びることは、人が感性とともに言葉で思考する生きものである以上、後の影響は多大なものであるに違いありません。「意味に言及しない」つまり「意味を問わない」のは幼児にそれを求めることが全く意味がないからです。幼児が得意なのは論理的思考ではなく、感覚による理解なのです。子供達は意味と結びついた言葉、いわゆる語彙が少ないため、目の前の世界を感覚的に理解しています。語彙不足を感覚で補っているその時期に論理的思考を高めてしまうと感覚的に物事を捉える能力は急速に衰えます。なぜなら論理的思考で事足りると脳が判断し、感覚的な理解を切り捨て始めるからです。そして残念なことに一度失われた感覚的に物事を捉える能力を飛躍的に獲得する機会は二度とないと言われています(臨界期を超えても訓練により幾分獲得することは可能)。だからこそ「教え込み」を避け、繰り返しの中「習い性で何となく分かる」ということが大切なのです。
子供にとって「分かる」「出来た」というのは大きな喜びです。毎日の繰り返しの中、誰もがこの喜びを経験出来るのです。よく「自信を持ちなさい」「自尊意識を高めることが大切」などと言われますが、成功体験があって初めて得ることが出来るものであり、何もない中で自信は付きようがないのです。
そういう点からも当園の取り組みは、小さな成功体験を次々と生み出す《仕掛け》とも言えるでしょう。

 

算盤や音楽遊び、体育遊びも同じ考え方です。繰り返し繰り返し子供達にとって簡単過ぎない難し過ぎないことを行ない、時々少しだけ難しいことに挑戦します。習い性でいつの間にか出来るようになっている子供達にとって挑戦は楽しいものです。感覚で理解し、成功体験が更に意欲を掻き立てる。このサイクルに入った子供は、大人から見て一見お勉強に見えるものでも遊び感覚で積極的に取り組んでいきます。私たち大人側に求められる態度は子供一人一人に合ったレベルの挑戦課題か、心に火がついた状態で嬉々とした表情で取り組んでいるかを注視することです。結果を焦って求めてはいけません。誤解を恐れずに言えば、結果さえどうでもいいのです。

そこが小学校以降の学習と全く異なる点です。漢字が読める、古典を暗誦出来る、算盤が出来る、音感が身につく、思ったように動かせる身体能力がつくなどは、【集中力やわきまえ】【美醜を判断出来る眼】【他者を尊重する心】【バランスのとれた人格の基礎】【イメージ通り動かせる健康な体】【自信】などを得ることを目的として日々繰り返される保育実践の副産物です。「~出来るようにさせないと」という思いで取り組んでしまうと先生は抱く必要のないプレッシャーを自ら課すことになりやすく、子供達も無理強いされている感覚に陥り、実践は楽しいどころか苦しいものになってしまうでしょう。ですから「よく分からなくても大丈夫、繰り返しの中で感じられる『分かる』『出来た』を楽しもう」でいいのです。ただし、基本姿勢(元気にお返事、年齢に応じた良い姿勢)をいい加減にしてしまうと「上滑り」の状態となり、積み重ねが上手くいかなくなってしまいます。笑顔だが毅然と求め、(姿勢を)意識している子供を褒めることを早い段階で繰り返し、定着を図る必要があります。子供達の気持ちが「積極的な状態」であれば、一人一人の歩みの差はありますが、楽しさの中で着実な積み重ねをしていくことが可能なのです。

 

肩の力を抜いて、子供達が時々見せる輝きをきちんと捉える。私達大人はこの気持ちを大切にしたいですね。