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みくにコラム9月号「救命研修」

 この夏は園外研修を2度行った。1つは音楽の研修。そしてもう1つは消防署に伺っての心肺蘇生法とAEDの使用法についての研修である。

 幼稚園内で心肺蘇生法を実際行うような事態に遭遇したことはないが、幼稚園に関わる仕事をする前、偶然事故に遭遇、心肺蘇生をしている現場に居合わせたことがある。また轢死の瞬間や中学生が交通事故にあって即死していた現場に居合わせたことがある。いずれの場合も自分は立ち尽くすだけで、何も出来なかった。非日常は日常を打ち破り、突如として現出するものである。そして、何の知識も心の準備もなかった私はただ立ち尽くすだけであった。どの状況も明らかに厳しい状況であったもののあの時何か自分も出来たのではないかという棘はずっと私の心の奥に刺さったままだった。そのためか救命法等が書かれたリーフレットを役所等で見かけた際は手に取らずにはいられなかった。
 幼稚園、学校は大事な命を預かる環境である。もしそのような状態に園児、生徒が陥ったら一刻も早く心肺蘇生やAEDにより回復させないと絶望的な状態を招くことになる。「知らなかった」では済まされないのである。口で幾ら「可愛い」「子供のために」と言っていても命を保障するという点で最大限の努力を払っていなかったら、それらの言葉は虚しく響くだけである。第一誰かを幸せにするために生まれてきた尊い命、相寄る魂の人(自分と運命的な出逢いをする魂を持った人)を探しに現世に舞い降りた命の火をそう簡単に消すわけにはいかない。たとえどんな絶望的な状況に陥っていようと教育機関に働く者は、あの世に逝きかける幼い命を現世に呼び戻す努力を尽くすべきことは言うまでもなかろう。惻隠の心(可哀想な人を見て可哀想と思う心)も体現化(ここでは何らかの方法を講じて救うこと)されないと始めから無かったと同じである。知識が想いを凌駕する瞬間と言えよう。究極的場面においてセンチメンタルな感情は大した意味を持たない。如何に素早く適切な処置が出来るかのほうが絶対的な重みを持つのである。
 そういった考えを踏まえ、私は最も重要な研修としてこの研修を位置付けている。いくら素晴らしい教育実践をしていても大怪我や死亡事故を起こしてはその価値は即座に否定されると言っても過言ではない。元気に登園(校)した子供を無事に降園(下校)させるのは教育機関の最低限の義務である。それを保障できないくらいなら、そんな園(学校)はさっさと廃園(廃校)にした方がいいだろう。それでも不幸にして命に関わる場面に直面することがないとは限らない。その時私達は慌てず最善を尽くしたいと思っている。もちろんそこに至らないよう危機管理には細心の注意を払ってはいくが。 (了)