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代表コラム11月号「一生を懸けて、ご縁の旅を楽しみます」

生きていて楽しいことは何でしょう。それはやはり現世という大海での「ご縁の旅」だと思います。
よくお金や土地に執着する人がいますが、それらは草葉の陰へ持っていけるものではありません。衣食足りるレベルで充分と思います。

 

真田幸村で有名な信州(今の長野県)真田氏の旗印に六連銭が描かれており、それは三途の川の渡り賃と言われています。今でも棺に六連銭を印刷した紙を入れる風習がある地域もあるそうですが、それはあの世の賄賂でなく、「観音菩薩(奪衣婆)様に帰依します。生前の不埒な行いを反省します」という証として仏前の前に捧げる「お布施・お賽銭」なのです。
当時の貨幣価値では一文が今の25円程度ですから、六文銭は150円位だったというわけです。大事なのは金額ではなく、冥土の神仏に捧げるお布施を持っていくという心掛けと考えられていたのです。その心掛けを持たず、形式的な六文銭を、もしくは大金を棺に入れて持って行っても冥土で「不届き者めが!!」と簡単に見破られてしまうでしょう。
400年前の安土桃山時代に生きていた人は、既にお金は現世でしか通じない、我々は神仏によって生かされている《言い方を変えれば「現世を間借りしている」》という意識を持っていました。

 

平成の世に生きる私達は400年前の人より超越した考えを持つようになれたのでしょうか。私はそうは思えないです。

実際、私も土地問題に頭を悩まされたことが2度程あります。「そんな猫の額のような土地で…」と思いましたが、ある(営利ではない)目的の為、身近な人間に評価額の数倍のお金を支払わなくてはならなかったことがあります。またある時は、他人名義の土地を通らないと車で通行出来ないという足元を見られ、その地主から明らかに使えない不要な土地まで破格の値段で買い取るように迫られたこともありました。その時は「最初から無いものと思えば結構。今後は一歩たりとも通行することはしないので買わない!!」と覚悟を決めることで早期解決となりました。
道路を通っていると「どうしてここに家があるのだろう、畑があるのだろう」という場所を時々見かけます。「ここに家が無かったら迂回しなくてもいいのに」という場所にあるのです。「先祖代々?」【公共道路で皆の役に立つなら先祖も許してくれるさ】「神が宿る家だから?」【みんなの為とあらば神も引越しに納得してくれるさ。第一、神がそんな狭い了見なものか】と思うのです。色々簡単に納得出来ない「私」としての思いがあっても、「公」の為になることならと協力することはとても意味があることだと思います。

 

我々はともするとお金や土地、自分の考えに固執しがちです。しかしそれに固執しているうちは「ご縁の旅」において、いい「ご縁」は訪れないように感じます。
実際私もネガティブ思考の時や何かにイライラしている時は悪循環になっています。それは当り前ですよね。人は頑張ろうとする人や可哀想な人を見掛けると力になろうとしますが、ネガティブな発想ばかりしている人やイライラしている人と居るとそれ自体がストレスになるので関わろうとしない傾向があります。ですから他者から見ると「あ、面倒そう。近づかないでおこう」と敬遠され、それがまた自分のイライラとなり…という悪循環に陥りがちです。
「ご縁」はなにも人に限りません。物事・運・閃きとの「ご縁」も精神状態と密接な関わりがあるように思います。あまり健全でない状態だと全ての物事は悪意に満ちたものに感じるでしょう。そういう感じ方でいると運も逃げていきます。頭も邪念で満たされているので閃きも得られません。

逆に精神状態が静かな湖面のように穏やかだとそれらは全て好転していくように思います。客観的に「不幸だなぁ…」「辛い状況だろうなぁ…」と思われる状況であっても、沼地の睡蓮のように咲いていることが出来ます。一見不幸な状況にあっても些細なことに感謝の思いを持ち、自身が不幸と嘆かないので心穏やかに過ごせるのです。目が曇っていないので大切にすべきことの判断も見誤らないです。
そして後になって、「あの時ああいう経験があったから今の自分で居られるのだ」とポジティブに考えられるのです。

 

そういう落ち着いた心境の時に自分はいい「ご縁」を頂いているように感じます。

現在、ライフワークである「子供の天分を存分に伸ばす園作り」の理解者、協力者に恵まれています。以前は関東でご活躍の方ばかりでしたが、今では地元広島県内でも園の方針に賛同して応援してくださる方々とも出会うことが出来ました。
生きていて楽しいこと、それはやはり「ご縁の旅」の中で出会った素敵な方々の精神(スピリッツ)、考え方に触れられることです。その輝きを間近で体感、共感出来ることです。

 

しかし、いつまでも楽しませて頂くだけの「私」では冥土で真田氏達に笑われてしまうでしょう。私も「公」としての閃光を放ち、幾らか役に立つ存在にならなくてはなりません。
現世を後にする時は、お金や土地等への執着に顔を歪めることなく、『サヨナラ現世、間借りしている間本当に楽しませて頂いたよ。全ての「ご縁」にありがとう』と素直に思えるようになりたいものです。