トップページ » BLOG 2013年12月

代表コラム12月号「気概のある人物へ」

「結果が全てではない。過程が大事」というのをよく聞きますが、これは「頑張った」と同様、人を励ましたり慰めたりする時は使っても自分から他人に言う言葉ではないと思います。例えば「コンクール予選を突破出来なかったけれど、今回頑張ったんです」と本人が言うと違和感を感じます。
 違和感の正体は自分への言い訳を感じるからだと思います。「コンクール予選が突破出来なかったことで、自分の練習がまだまだだということが分かりました。次回こそは予選を突破してみせます」という気概がほしいところです。自分への言い訳や甘やかしをし続ける人と、何とか自分を鼓舞して高みを目指そうとする人、最終的にどちらが伸びるかは火を見るより明らかです。

 

 しかし、慣れないうちは良き指導者と巡り合うことも大事です。自分を鼓舞して努力をしようとしても、分不相応な課題を自身に課すとたちまち挫折することになります。なぜならその課題は、その時点での本人にとって余りにハイレベルで、クリア出来るものではないからです。「出来ない」という経験が重なると当初やる気に満ち溢れていても次第に諦めに変わり、やがてそのことに向き合うことが苦痛となってしまいます。
 ピアノで言えば鍵盤に向かうことが、勉強で言えば机に向かうことが苦痛になってしまうのです。

 

 ここで重要なのがスモールゴールを設けることです。ちょっと頑張れば到達出来る目標を掲げ、それに到達したら本気で褒めることが肝要です。自身で評価出来ないうちは、周りの人間が判断する必要があるでしょう。スモールゴールは簡単過ぎても難し過ぎてもいけません。簡単過ぎると単純作業に思えてつまらなくなります。また難し過ぎると先述のように苦痛を感じて続きません。また ちょっと頑張れば、ちょっと意識すれば出来るという加減が重要なのです。
 その際指導者側として重要なことは、、本人の心に火が点いているか、すなわちやる気になれているかということを仔細に観察することです。すると課題に向かっていく姿を「いいものだなぁ」と感動に近い思いで見ることが出来、「出来たから褒める」ということは二の次になります。出来たか否かに力点を置いていると、心の力は育ちません。出来ない(≒失敗する)ことを恐れ、たとえ30出来ても1の失敗で自信を失うような子供になってしまいます。
 イメージとしては伴走し気持ちに共感しながら、その挑戦を応援するというのが近いです。

 

 どこにおいても「人を育てる」ポジションにある人は、スモールゴール(直近の目標)の設定は必須です。数多くのスモールゴールの集積が大きな成功をもたらすのです。
 それは私達幼児教育の携わる者とて同じです。一夜にして弁えや集中力がある子供にはなりません。
 幼児の特性について理解を深め、地道に保育理念に基づいた実践方法を推し進めていくことが肝要だと思います。

 当園の教諭は「幼児は論理的思考より感じることの方が得意で、また競争や友達の真似をすることが大好き」という特性を理解した上で、テンポ良く実践を行っています。ちょっとだけ難しいことが大好きな子供達は、喜々として課題に取り組み、それをクリアーし認められることを楽しんでいます。「挑戦して出来ると楽しい、楽しいから何度もやりたりたくなる、何度もやるから自然と上手になる」というサイクルの中で心に火の点いた状態の子供達は、一つが出来たら次の目標を探します。その頃には顔つきも真剣で知性すら感じさせるいい表情を見せてくれます。自分で課題に向かい自ら習う状態になると大人がとやかく言わないでも知的好奇心のままに学習していきます。
 自転車に例えると、いきなり自転車を乗りこなせる人はいません。最初はコロの付いている自転車を押し、次に自分でペダルを踏もうとするのに任せます。慣れてきたらコロを外した状態で後ろから支え進ませます。やがて自分でこぎ、曲がったり止まったり出来るようになるとそうっと手を離しても自分で進んでいきます。それから一人でこげるようになると、いろんなところに行ったり、自分から細い板の上を渡ろうとしたり、ドリフト走行をしたりと色々挑戦するのです。皆さんにもそうした記憶はあるのではないでしょうか。

 

 教育も一緒です。一つずつの過程にスモールゴールを設け、その環境の中で心に火が点いているか仔細に観ることが重要なのです。当初は、湿った藁同様簡単には火は点きません。しかし繰り返し行っていくことでやがて心の中に宿った小さな火は少しずつ燃え始め、やがて本人自身が激しく燃え始めます。そうなるともう他者の手助けは必要ありません。どんどん自分から課題を見つけ挑戦していくことが出来るのです。

 

 先程《「人を育てる」ポジションにある人》というフレーズを用いましたが、子供にとってその最たる存在は「親」に他なりません。
 けれども現代において「可愛い子には旅をさせよ」の精神に逆行している親が多過ぎると思います。子供自身が出来ることまで親が手をかける一方、「それぐらい出来るだろ」というその子にとって簡単なレベルの事なのに「わぁすご?い」「偉いね」と猫撫で声で褒める。これで子供が育つはずありません。
 私の関わった子供で、今若手国会議員として頑張っている青年が居ます。(福山で彼のポスターを見かけた方も多いのではないでしょうか)
 生徒の頃は、風が吹こうが雨が降ろうが片道15km程の道のりを自転車で通っていました。親が立派な方で、「子供が出来ることを親が奪ってやることは子供の成長を阻害する」という事を理解し、実践されている方でした。正しいことは全力で褒め応援し、子がいけない事をしたら本気で叱り、どう責任を取ればいいのか本人に考えさせる親でした。
 一方子供の喧嘩にしゃしゃり出てきて学校サイド(中学校)も巻き込んでかき混ぜた残念な親の子供は、転校したものの転校先の学校でも適応出来ず、結局中退しています。この時は親は何日も怒りを露わにしていましたが、当の本人達は翌日一緒に遊んでいました(笑)

 

 自分で出来ることは自分でする事を習慣付け、トラブルも問題解決能力を身に付ける絶好の機会と見る方が賢明ではないでしょうか。何もかも学校(幼稚園も文科省管轄のれっきとした学校です)の責任にすることは簡単です。けれどもそれは自転車を支える事をせず「支え方が悪い」「もっとゆっくり押さないとダメだろ」と外野で好き放題言っている事に似ています。
 親も教育機関も願いは一緒「世の中の役に立つような立派な人物になってほしい」ではないでしょうか。一緒に自転車を支え、目を見合わせ、そうっと放す…そういうパートナー関係にあると思っています。
 そう言うと一部の人は「学校の方から歩み寄れ。私達の考えを取り入れろ」と仰います。しかしながら学校は予算内で出来ることを、教育理念に従って実践する存在です。全員の意見を採り入れながら実践を進めていくことは現実には不可能なのです。Aさんの意見を立てればBさんの意見は立たずということになってしまいます。全ての意見を採り入れようとすると学校のアイデンティティは失われます。
 
「子供のやろうとする姿を愛しいと感じながら少しだけ難しい挑戦をするのを見守る。そしてスモールゴールに到達したら一緒に喜ぶ」というのが健全な親や教師の在り方だと思います。「本人の力を信じ、手を貸すのを我慢する。スモールゴールに到達するのを待つ」というのは案外慣れないと難しいものです。けれどもそこで手を貸すことは、本人の甘えを助長し学びの機会を奪ってしまうことを私達は悟るべきだと思います。
 もちろんスモールゴールはその子にとって難し過ぎるものではいけません。「あ、難し過ぎたかな…」と思ったら再設定が必要となります。また本人の心に火が点き、自分で進み始める迄継続することが肝要です。

 

 周りの大人達によって本人の心の裡に宿った火。それがやがて燃え上がり、冒頭でご紹介したような自分で自分を鼓舞し更なる高みを目指すような人物へと子供達が成長することを心から願っています。 <了>