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代表コラム6月号『刹那の感動』

 子供達と過ごす中でハッとする瞬間に出会った時、その心の在りように涙しそうになります。
 先月(5月)、年少児の男の子同士が互いにうつむいた瞬間おでことおでこをぶつけてしまいました。すると一方の男の子が間髪入れず「大丈夫 ?!」と相手のことを心配して言ったのです。その時の相手のことを本気で心配する声色、表情は今でも忘れられません。
 また年長児のある男の子が「書き」の時丁寧に書いているのを褒めると、日付の所も見てとそっと指差しました。私はそこにも花マルをし、抑えた声で「先生の誕生日ぃ♪」とおどけてみせました。これ位はよくある光景なのですが、彼はここからが素晴らしかった…2時間位経った頃でしょうか、横で誰かがつついてきます。そしてキラキラした眼差しで改まった素振りで私の方を向くと「先生、お誕生日おめでとう♪」と言ったのです。突然の素晴らしいプレゼントに感動したことは言うまでもありません。
 そして極め付けが担任不在の歌唱指導の際に起こった出来事です。最初のダメ出しを受け、二度目に歌った時のことです。その場に居ない担任の指導を思い出しながら歌ったのです。その場に担任は居ない。しかし心で繋がっている両者は空間を超える…私は溢れる涙を堪えることが出来ませんでした。素敵過ぎる子供達の様子に感動しました。またそこまで成長させた担任に対して感謝と嬉しさを感じました。
 生きていて素晴らしいこと、楽しいこと。それはこのような一瞬一瞬の輝きに立ち合えることです。ご縁の織り成す潮流の中で刹那の感動に魂が震える時、生きていることの僥倖を実感します。

 

中国東晋・宋の時代の漢詩人陶淵明(とうえんめい)は次のような漢詩を遺しています。
 其三
道喪向千載(道喪われて千載に向〈なんなん〉とし)
人人惜其情(人々その情を惜しむ)
有酒不肯飲(酒あれども肯〈あ〉えて飲まず)
但顧世間名(但だ顧みるは世間の名)
所以貴我身(我が身に貴ぶ所以は)
豈不在一生(豈に一生に在らずや)
一生復能幾(一生復た能く幾ばくぞ)
倏如流電驚(倏〈すみや〉かなること流電の驚〈はた〉めくが如し)
鼎鼎百年内(鼎鼎たり百年の内)
持此欲何成(此を持して何をか成さんと欲する)
【解釈】
 この世を支配していた正しい道理が失われてから、もはや千年にもなろうとしている。今は誰もが本当の感情を出し惜しみして、外に表さないようになってしまった。
 酒があっても飲もうともせず、ひたすら世間的な評判ばかり気にしている。
 自分の身にとってそんな評判が大切に思われる理由は、現に自分が生きているということにあるのではなかろうか。
 しかもその生きられる時間がどれほどあるというのか。それはまるで稲妻のはためく間にも似た短い時間なのだ。
 たゆみなく時の流れてゆくこの一生の間、そうした世間の評判ばかりを後生大事にして、一体何をやり遂げようというのだ。

 

「平家物語」や「徒然草」等日本の古典文学にも窺える《仏教的無常感》を彷彿とさせる漢詩ですね。我が国の文学では、鴨長明の「方丈記」の一節がそれをよく表しているのではないでしょうか。

 

 「方丈記」ーゆく河の流れー
 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
 たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。
【解釈】
 川の流れは途絶えることはなく、しかもそこを流れる水は同じもとの水ではない。川の澱(よど)みに浮かんでいる泡は、消えたり新しくできたりと、川にそのままの状態で長くとどまっている例はない。この世に生きている人とその人たちが住む場所も、また同じようなものである。
 玉を敷いたように美しくりっぱな都の中に、棟を並べ、屋根の高さを競っている。身分の高い者も低い者も、人の住まいというものは時が進んでもなくなるというわけではないが、これは本当だろうかと思って調べてみると、昔から存在している家というのは珍しい。あるいは、去年の火事で焼けてしまい今年作った家もあれば、大きな家だったのがわかれて小さい家になっているものもある。そこに住む人も同じである。場所は変わらずに住む人は多いが、昔会った人は、2,30人の中にわずか1人2人程度である。朝に死ぬ者があれば、夕方に生まれる者がいるという世の中のさだめは、ちょうど水の泡に似ている。

 

 陶淵明は人の一生の短さ儚さを「稲妻のはためく間」、鴨長明は「方丈記」の中で「うたかた(水の泡)」に例えています。悠久の歴史の大河の中で私達が生きている時間はほんの僅か…
 だからこそ、他人の顔色ばかり窺って一生を終えることは本当に愚かしいことだと思います。だからといって傍若無人に振る舞い、人に迷惑ばかりかけていいというわけではありません。人の思いに感謝し、刹那の感動に悦び、また自分も一瞬の閃光を放つことが「生きている悦び」に繋がるものと感じています。

 

 冒頭で紹介した三つのエピソードは、私に刹那の感動をもたらすのに充分でした。彼らの素敵な心根はこれからも多くの人の心を満たすに違いありません。私達はそれを見守りつつ子供達が持って生まれた天分を日々僅かずつ伸ばすことにこれからも尽力して参ります。一瞬一瞬の感動に立ち合える僥倖に感謝しつつ生きる。そして恩送りならぬ「感動送り」をすること。これこそが「うたかたにも似た一生」を彩る上で最も大切なことに思えるのです。