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園長コラム1月号『年長児の態度から見えること』

 2学期の終業式の際、感動的なことがありました。
 終業式では園長の2学期の所感や各担任の話、冬休み中の注意事項などが語られました。 正面を向いて話を聞く、これはどこでも良くある風景なのですが、ある先生が子供達から見て斜めとなる場所で話し始めたところ、年長児がサッと全員同時に体ごと向いたのです。
 立腰状態、いわゆる正座した状態で、誰から言われたわけでもないのに話をする人の方に体ごと向き直った子供達の様子に担任のみならずその場に居た大人全員が驚き、感動しました。

 

 日々の教育実践を通して子供達に身に付けてもらいたいことは「集中力」そして「わきまえ」です。それらが身に付いていればきちんと人の話を聞くことが出来ます。
 小学校に進級した以降も話を集中して聞くことが出来るので、よほど下手な授業でない限り大抵のことは理解しながら順調にステップアップ出来ると思います。わきまえも身に付いていれば天狗になることを潔しとしません。適時教育を通して体得した審美眼から見て、人を小馬鹿にしたり井の中の蛙で得意になるのは美しくないというのを理屈を超えて分かっているからです。

 

 冒頭でご紹介した年長児の在りようは、私達が目標とする子供像でもあったので、「ここまで成長したか」と嬉しく、目頭が熱くなりました。
 担任は「子供達が素晴らしい!!」と感動交じりに褒めていましたが、私としては子供達が持っている良さを引き出した先生も素敵だと思います。

 

 子供は元々素晴らしい力を持っています。よく「可能性は無限大」と言われますが、何らかの課題に挑む前は確かに無限大です。しかしそれは可能性であって、実現へ向かう為には継続出来る粘りと力を発揮出来る環境や指導者と巡り合う運、本人の適性など様々な要素が複合的に絡んでいることを思うと安易な道のりではないことが分かります。どの地域に生まれたか、どんな家庭に生まれたかを見ただけでもスタート地点も平等ではありません。
「可能性は無限大」それを安易な慰め言葉ではなく、本当にその可能性を信じ、子供達の中に眠る個々の能力を引き出そうとするのは、実はかなり地味で根気のいることなのです。

 

 まず子供一人一人の「現在の状況」が「心の風景」と併せて掴めていないと始まりません。例えばピアニカが吹けない子供がいる場合、音が体に入っていないのか、どこを弾けば出したい音が出るのかが分かっていないのか、指の分化が出来ていないのか(フレーズの場合)、何をすればいいのか自体が分かっていないのか、子供個々人によっても理由は様々です。もちろん子供達も上手に弾くお友達を見て「自分も○○ちゃんみたいにかっこよく吹きたい」という思いはあるのですから、出来ない自分に相当ストレスがかかっているはずです。そうした心の風景を担任は感じ取りながら、「大丈夫、何とかやってみようという気持ちが素敵ですよ」「最初のところは出来ていますよ」と励ましながら、子供達が課題を克服していく過程に心理的に寄り添うことが求められます。
「愛だろ、愛」というコマーシャルが昔ありましたが、先生にとって求められるのは子供に対しての「愛」なのです。それを忘れてしまうと、心の風景が見えなくなり、やらせるばかりの「教え込み」になってしまいます。そのモードに入ってしまった実践者からは笑顔は消え、子供達も修行僧のような悲壮さを漂わせることになります。

 

 一方、子供の心の風景を見つめ、愛情を持って受容している実践者は、傍で見ている者もついつい楽しくなるような実践を進めていきます。実践者である先生の経験値は最初から高いわけではありません。熟練者から見れば稚拙なものに映ることもあるでしょう。しかし身の丈に合った努力をし、子供達と楽しもうとしている姿は素敵な印象を見る者に抱かせます。

 

 大切なのは、やはり子供軸で感じ考える、そして自身もスモールゴールに向けて進み、その都度達成感を感じる姿勢だと思います。無条件に受容し、愛情を持って関わることはもちろん必須ですが、先生にも目に見える形の見返りが必要です。保護者からの感謝の言葉や同僚からの畏敬の眼差しを受けることでも高揚感を感じられますが、一番の栄養は子供達が楽しみながら挑戦を繰り返すことにより今まで出来なかったことが出来るようになることです。子供と一緒にその瞬間を喜び、「よく私の拙い実践についてきてくれた」という謙虚さと感謝の心を持てるようになった時、先生は報われるのです。

 

 日々の取り組みは一人一人への観察を基にした適切な環境設定をし、丁寧に承認欲求を満たしていくという地味なものです。一朝一夕で音感は付くものではありませんし、跳び箱を跳べるようになるものではありません。日々の取り組みの中で少しずつ出来るようになり、やがて大人が驚くような結果を子供自身が出すようになります。

 

 あることが出来るようになったからといって、それはあくまでスモールゴールにしか過ぎないので、慢心することもありません。もし子供が慢心していれば、それは指導者側が現状に満足してしまい、その子の持つ可能性の探求をおざなりにしていることが主な原因と考えられます。そうならないよう気を付けながら、挑戦の継続が出来るよう配慮する必要があるのです。

 

 それから忘れてはならないことには、「何を目的として実践を行っているのか」ということです。
 様々なことが出来るようになり自信を持つことは良いことです。日記が書けるようになる、漢字を類推して読めるようになる、算盤が出来るようになる、音楽を聴いてソルフェージュ唱が出来るようになる、跳び箱10段跳べるようになるといった結果を子供たち自らの力で出すようになりますが、これは目的ではありません。もし目的化してしまうと先生はその責任感ゆえ子供達から結果を引き出そうと無謀な挑戦をさせるようになります。子供の心の風景を顧みず、ただただ「教え込み」をし、出ない結果に焦りといら立ちを覚え、更なる無理を子供に強いてしまうのです。

 

 先述の出来ない子供と同様、どの先生も子供達と感動を分かち合いながら素敵な実践をしたいのです。にもかかわらず教育に関わる者の多くがそれとは逆の方向に行ってしまうのには主に次の要因が考えられます。
①プライドが邪魔をして現状を認められない。
②身の丈に合った努力をせずに高望みばかりしている。
③実践の目的を見失っている。

 

 教育の目的は、昔から言われるように「自立」です。子供達が自身の力で人生を切り拓けるようにすることです。それにはまず人格を整える必要があります。
 私達は子供達を整えるために日々地味とも思われる実践を重ねているのです。読み書きをしたり算盤をするのは小学校教育の先取りではなく、整える手段なのです。

 

 まず姿勢を正し、両足を床に付け、「ハイ」の返事と挨拶から始めます。そして間違えたり全く出来なかったりしても取り沙汰せず、テンポ良く繰り返します。「そのうち出来るようになる」と先生は悠然と構え、子供達に無理過ぎない課題を絶え間なく提供し続けるのです。出来る出来ないよりも「子供の心に火がついているか」が大切なのです。
 うまく火をつけることが出来れば、子供達は適切な挑戦環境を設定し続けるだけで自ら進んで課題を克服していきます。「自立」への第一歩を踏み出している子供達を先生は愛情のこもった眼差しで見守り続けていきます。
 問題は「いかにして子供の心に火をつけるか」ですが、それにはやはり子供がどこにつまずいているかを正確に観察する必要があります。そしてそれが分かれば、早い段階で適切な課題・環境を再設定するのです。それにより子供は無謀な挑戦をせずにすみ、挑戦しがいのある現実的課題に立ち向かうことが出来るのです。それが具体的に出来て、初めて子供の心に寄り添えるように思います。

 

 冒頭の年長児達の態度は、先生と実践課題への挑戦を繰り返したことの集大成と言えるでしょう。結果をはやる気持ちを抑制しながら、子供達の現状を観察し、丁寧に実践を積み重ねてきた先生とそれにしっかりとついてきた子供達が見せた素晴らしい事実です。

 

 年長児ばかりではありません、年少児、年中児も担任の先生はバランス感覚を持ちながら子供達と関わり、学年相応に整ってきたように思います。先生と子供達が沢山のワクワク感の中で更に高まり合う予感に思わず頬が緩む年始を迎えることが出来、ありがたく思います。それも当園を選んでくださった保護者の皆様と毎日元気に通ってくれる子供達、実践の目的を見失わず、ポジティブな気持ちで子供達と感動を創出しようと取り組んでくれる先生達のおかげだと思います。