みくにコラム3月号 批判家はいらない!実践家でありたい!!
学生の頃は、私も小林秀雄氏、加藤周一氏、山崎正和氏の文章をよく読んだ。知るきっかけは多くの方と同様、教科書や模試だったように思う。彼らのロジカルで説得力ある文章に次第に惹かれ、加藤周一氏に至っては全集を衝動買いしてしまったほどだ。当時、福永武彦氏にハマっていたこともあり、マチネ・ポエティクの一人である加藤周一氏にどこか親しみを感じていたからかもしれない。
評論家の存在。自身の発想に行き詰まりを感じ、新たな見方、発想を手にしたい時、評論家の視座が役に立つ場合がある。「あ、こんな考え方もあるんだ」「これは自分のケースにもあてはまるじゃないか」といったように。
しかし、先に挙げた三氏はともかく、現代における評論家の中で一行一行に魂を籠めている評論家は少ないのではないか。責任を持たない文章は毒にこそなれ薬にはならない。「そんなに人のことを酷評するなら自分でやってみろよ」「陰の苦労を解った上で書いてんの?」と毒づきたくなる。だから傍観者的評論家と魂を一文一文に籠めて書く評論家を同じ「評論家」と一括りにするのは抵抗がある。だから、以下前者を「批判家」後者を「評論家」と区別し文章を進めていきたいと思う。
私は教育現場においては批判家的態度は不要だと考えている。机上であれこれ論ずるよりまず実践ありきだと思うのである。もちろん実践内容は理念・方針に基づくものでなくてはならず、実践内容について尋ねられれば明快に説明出来るものでなくてはなるまい。
例えば音楽的取り組みで素晴らしい結果を出している幼稚園を目の当たりにした場合。内心自分たちには出来ないと最初から諦め、それを認めるのを自尊心が邪魔するものだから、その園の取り組みにあれこれケチをつける御仁がいる。このような批判家は旧態依然の取り組みを内省することなく、また当然疑問を持つことなく行っている。30年前の保育形態をそのまま現代でも行っているのである。ただ漫然と幼稚園で過ごし、適当に子供達と戯れることをヨシとするありようは「子守り姉ちゃん」と揶揄されても仕方ないものであるし、誰も気付いていない場合が多いようだが、子供達を漫然と過ごさせている教育機関のスタッフは、悲しい哉、子供達の成長の黄金期である時間を盗む「時間泥棒」である。これでは幼稚園教諭の社会的地位うんぬん以前の問題である。
企業はマーケティングを行い、様々なフレームワークを駆使し、現状を分析しこれからの戦略を立てていく。自社の特色を出しつつ共存共栄する中で如何に顧客満足度に正比例する利益を出していくかを真剣に考えている。幼稚園だけが旧態依然でいいということはあるまい。私立幼稚園も「自園の特色を出しつつ地域の幼稚園保育園保育所と共存共栄し如何に子供達・保護者に満足して頂きそれに見合う対価を頂くか」を考えていかなくてはならない。
その見地に立つと、他園の批判をすることは全く意味のないことである。他園が素晴らしい取り組みをしていれば、その姿勢を見習い「自分達には何が出来るだろうか?」と考え、自園の保育を革新していくべきではあるまいか。その際必要なのは、批判の姿勢ではなく実践である。私は常々思っていることに「大言壮語を並び立てる者よりも一の実践を行う者の方がエライ」というのがある。「街をクリーンにするため○○といった取り組みが必要だ」と大して何もせずに傍観者然として言う者(実際行動している方を除く)より毎日10分の清掃を日課にして行動している人の方がはるかに立派だと思う。
幼稚園でも「子ども達のため今出来ることに全力を尽くし実践する」という姿勢は必要である。園外に批判家がいるのは仕方ないにしても自分達が批判家になっては絶対にいけないのである。私も含めて園のスタッフ全員が理念・教育方針を理解した上で実践を行う実践家であることが大切だと思う。そして、実践を目に見える結果につなげていくことが出来た頃、評論家のご意見を聞かせて頂ければ大変幸せに思う。
御調みくに幼稚園
代表 玉崎 勝乗