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みくにコラム5月号「確かな実在感」

G・Wではリフレッシュできたでしょうか?私はETCを取り付けるタイミングを逃したこともあり車で遠出する気分にならず、かといって新幹線や飛行機でどこかへ行く計画も今年はありませんでした。まとまった時間があればインドや中国・西蔵に行きたいという気持ちはあるのですが、暫くは難しそうです。
さて今月のコラムでは「確かな実在感を得るにはどうすればいいだろうか」ということにこだわって書き進めたいと思います。

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明治の文豪夏目漱石先生の講演記録「現代日本の開化」の中に「日本人がそれまで培ってきたものを放擲し、西洋の模倣に終始することは上滑りの感覚を招く」というくだりがある。明治の時代の空気に触れていない私が漱石先生の「上滑り感覚」を精確に捉えることは難しいが、恥を覚悟で牽強付会に解釈すると、「自国の伝統的価値観や道徳観をなおざりにし闇雲に諸外国のそれらを輸入して自らの恃みとしてしまうことは全国民的規模でアイデンティティの喪失を招く」というように私は理解している。目に見える現実と感覚とが乖離した地に足が着いていなくてどこかフワフワとした感覚を多くの日本人が持っているようだが、これも「教育勅語にも記されているような日本的道徳観」を排斥し続けた
結果なのかもしれない。人はパンのみには生きられないのである。
しかし、そうした実在感の欠如を嘆いてばかりいても仕方なかろう。なぜなら時間は誰彼平等に流れてしまうのだから……
ではどうすればそのフワフワとした感覚から抜け出し、確かな実在を感じつつ「時」を刻むことが出来るのだろうか。
それには世の中で人と関わっている自分、人の役に立っている実感から来る確かな実在感が必要だと思う。「惻隠の情(=可哀想な人を見ると放っておけないと湧き起こる感情)」
に自らの行動原理をリセットすることが肝要だと思う。そうすることで上滑りのない実在感を持って一人一人の「時」を得ていくことが出来ると私は確信している。
具体的に言うと、例えば近所の掃除をする、困っている人に手を貸す、日頃お世話になっている人にささやかでもプレゼントをする……というように自分の快楽追求をちょっとだけ我慢して周囲の人に喜んでもらえる方を優先するのである。相手軸に立ち、「自分が自分が」という思いに少しブレーキをかけ、その人の喜ぶ姿を自分の喜びとする方法である。
この手法は「情けは人のためならず(自分のため)」に近い。ジコチューはどこの世界でも嫌われるが、人を巻き込み人に幸せをもたらす自己中心はアリではなかろうか。所詮人間は自己中心的な生き物である。自分の目で世界を捉え、自分の脳で考えるのだから当然といえば当然である。ならばそれを前提とし、きれいごとを言うのを止めて自己中心的に人に幸せ感をもたらす行動をとればいいと思う。
とはいえ、これもなかなか難しい。ストーカーのように迷惑になると幸せ感とはほど遠いものになってしまうしタイミングを間違うとありがた迷惑になってしまうからである。相手の表情、空気を読み、中庸のところで役に立つのがよいと考える。中庸でないものは胡散臭く、第一鼻につく。
そこで自分なりの基準が必要となるわけだが、最近私が参考としているのは、松下幸之助氏や稲盛和夫氏、小宮一慶氏、隆慶一郎氏の考えである。諸氏に共通することは、日本人が大切にしてきた伝統的価値観や道徳観を体現しているところである。そこにはブレが無く、しかも分かりやすい。
漱石先生が嘆いたおられた「上滑り感覚」に歯止めをかけ「時」を得ていくため、一人一人が相手軸に立った行動をしていくことが今必要だと思う。それが日本全体を包むムーヴメントになることを願いつつ文章を締めくくりたいと思う。
御調みくに幼稚園

代表 玉崎 勝乗