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代表コラム5月号「弁えについて」

 今回は広島や福山で古事記や論語等の素読会を実践されている松田氏が(MixiやTwitter等の「ソーシャルネットワーキングサービス」)に投稿された文章から「弁え」について考えたいと思います。
 以下松田氏の文章↓
【場を読もう、配慮を知ろう、相手の負担を考えよう…という話】
会社(広島市南区東雲)の近くには広島大学の医学部と歯学部があるために、学生向けの食堂がたくさんあります。
価格は安く、ボリュームも満点で味もよい…というわけで、会社勤めの自分にもありがたい環境です。

ランチでお世話になることが多いのですが、今日は夕食で寄りました。
Wというお店です。

いつものように日替わり定食を頼んでから座りますと、店内に携帯電話で大声で話をしている会社員風の人がいることに気付きました。
話の内容から不動産関係であることが分かりました。スーツにネクタイ、40歳代かなぁ。
相手が何かミスをしでかした、しかも10:0で相手が悪い案件のようで、取引先とみられる電話先を怒鳴り散らしていました。
狭い店内に罵声が響くわけですよ。計ってみたら15分間の通話でした。
一度電話が切れて、またもう一回通話…。

ちょっと言わせてもらっていいですか?

せっかくの夕食、あなたのせいですごく気分が悪くなった。
なんであなたの罵声に包まれながら夕食をいただかねばならんのか。

どうも確実に相手が悪いようだ。
しかし、完全に自分に分がある時こそ、弁えが必要ではないか。
確実に勝てる案件と見るや、全力で相手を攻撃して悦に入っている人をたまに見るが、恥ずかしくないか。
教育でもそうだが、あえて逃げ道を作ったりするものだ。
強い言葉で確実に分が悪い相手を罵るのは、品がない、そして精神的に弱い人間がすることだと思う。

食事中に電話はやめなさい。
下品です。食べては通話、また食べて、そしてまた通話。
温かい食事を出してくださるお店への配慮はないのか?
さっさと食べて出る。出てから電話。
一旦切ってから何分後にかけ直すように指示。いくらでも方法はある。

お店の経営を考えなさい。
最近ではすっかり「安ければ良い」「安くて良いものを」という考えが定着しているが、極めて危険で利己的な考えだと思う。
異国の言葉で申すところの「Win-Lose」の考えである。私は得をするので、あなたは我慢していなさい。
安くていいものなんてない。断言する。
「Win-Lose」の考えと行動を恒常化させると、継続した互恵を築けない。
一時的な「Win-Lose」があるのは当然だが、その奥に「Win-Win」の方向性があるのが大前提だ。
500円の焼き魚定食を食べて、店の雰囲気を悪くし、そして何より何分間、この店の席を1脚占拠するのだ。
すでに入り待ちの行列ができていた。見れば分かるよね。
こういう人に限って「カネを払っているんだぞ」と言うが、カネを払えば何でもしていいわけではなく、さらにこの店の性格や店舗席数、価格設定を考えるとサッサと食べて出てあげる。
そして回転率を上げてあげるのが当たり前の配慮だ。
5,000円を払えばいろいろ許されるというわけではないが、500円という実に良心的な価格を考えなさい。
500円で定食をいただいている自分がこの店の中で何をして良いのか、その範囲を考えなさい。

SNS(MixiやTwitter等の「ソーシャルネットワーキングサービス」)でいろいろ教えていただいているFさんが示唆に富んだ記事を書いておられました。

「電気屋さんが『今回はタダでいいよ』というのは、『次回はうちで買ってくださいね』ということだ。それを分からないのは嘆かわしい」と。
本当にそう思います。要は利己のみに走り、相手の利益や立場を顧慮しない人が激増しているような…。

実はお客という立場でもそこまで考えるのが当然なんですね。お客にも「客たるべき資格」があります。
粗悪な品物、粗悪なサービス、粗悪な店を盛り立てよう、と言っているわけではありません。
当然の対価を認定しようということです。また、自分の支払いの範囲内での要求をすべきです。

ムカムカしながら食事をしてしまいました。
そして、
「あなた、非礼ですよ」
と一言言ってから店を出ようとしたが、一向に電話は終わらない。待ちの行列はさらに長くなっている。
ここで自分まで留まって店の回転率を下げるわけにはいかないので、お支払いをして店を出ました。

こういうのも教育の結果によるものだと思います。
「個人の利益の最大化」を目的に「個人の権利の肥大化」という概念の中で育ち、公の概念も育てられずに過ごせば、こういうのが生まれてむしろ当然ですよね。
自己客観化をそもそも「する必要がない」という中で育ち、相手の利益を「顧慮する必要がない」という考えを増長させてしまう…。
いわゆる戦後教育の大きな悪弊だと思います。

定食屋の店内ひとつ、まともな姿勢が取れないようであれば、社会でどんなことをしているか推して知るべし、です。

自分は会社勤めをしつつ、NPOをしていますが、NPOのことを「何でもタダでしてくれる集団」だと勘違いしている人、たくさんいます。
素読教室では750円/人の参加費をいただきますが、会場費・教材費・管理費などを考えるとトントンどころか赤です。
見れば分かるはずです。この会場の手配にかかる経費、このプリント数…。
しかし「えーっ、お金とるの?」という人、結構います。
来なくてよし。価値を理解してくれる人と「Win-Win」であれば良し。
自分では2,000円/人の価値があると思っていますし、非営利だから営利に負ける品質です…なんてことは考えたことさえないです。
営利に勝てる質でやっているつもり。

こういうこともありました。
ある方から当方に講演出講依頼をした際の経費に関して聞かれた際、お答えしましたら
「えーっ、そんなに取るの?」
と言われました。うーん「取る」って人聞きが悪いよね。
それに必要経費しかいただいていなくて、利益なんてもともとないんです。
「えーっ、そんなに取るの?」ってのは、とりもなおさず「お前程度でそんなにかかるのか」というある種の侮辱なんですな。
言っている本人が気づいていないのは痛いことです。

もっとひどいとこんなことも。
「自分も素読指導をしたいと思う。ついてはノウハウを教えに来い」
いやいや、ノウハウって、もうそれ自体に技術料も著作料もかかりますよね。そういう概念がないのかな。
「一度うちの素読教室に来ていただけませんか。そうすれば、教え方も教材もすべて分かりますので」
と申しましたら
「こっちは忙しいんだ。そっちから教えに来い。おたくはNPOだろ!」
とのこと。やれやれ。

さらにひどいグレート級。グレート義太夫。
交通費さえも満たせない出講料での依頼がありました。
交通費、資料代、教具費…を考えると当然、赤になります。
「申し訳ありませんが、これでは赤になりますので…」
と言ったら、
「では赤の部分はあなたが穴埋めしたら?」
とのこと。
「いや、参加者様からいただいた大事な参加費で運営しています。しかしそれでも足りないので私財を投入して運営しています。そんな状況でして…」
と言ったら今度は、
「あなたが私財を投入しているからいいんですよ。その姿がいい」
はぁ…。あーた、何言ってるの?
訳すとこうです。
「お宅の赤字なんて知らん。赤が出るならお前が穴埋めしろ。赤になってもこの値段でやれ」

NPOってこんなに誤解されて、こんなに虐げられています(笑)
結局、定食屋の話と同じ構造です。

「お前のことは知らん。ワシがやりたいようにやる。黙って損してろ」

今は営利の商取引でもこういう間柄が増えていませんか?
自分は営業職だから痛感しています。

「人を生かす」考えを持てないと、最終的には「自分も生かされない」状態になる。
「自分だけ生かす」という考えに染まった人が社会を構成する大部分になれば、社会は崩壊して国は滅ぶ。
そう思います。
 ↑ココまで松田氏の文章

 当園も開園以来、「子供達の天分を開花させつつ、弁えを兼ね備えた人格に修養する」ことを目標とし日々具体的な実践活動をしてまいりました。人こそ宝と考え、教諭の園内外の研修を充実させてきました。
 原理原則を理解し、方法を学び、子供達が楽しい感覚の中で様々なことに挑戦出来るよう工夫してまいりました。相手軸(子供軸)に立ち考えることの重要性をスタッフ皆で時折確認しています。
 このような学びの中でお金・時間もさることながら、あと一歩がなかなか出ないいら立ちや悔しい思いによる涙もそれなりに流しています。実際そういう思いをしないと心からの喜びもなかなか得ることは出来ないのかもしれません。スポーツに例えると分かりやすいのですが、練習で頑張っているからこそ結果に繋がるのであり、例え結果が出なくても次に繋がるからです。一所懸命やっていない場合、偶然勝っても喜びは深くありませんし負けてもそれほど悔しくありません。
 試合で負けて悔し涙を流している選手の姿は立派だと思います。それは社会人とて同じ。苦労して作った製品が認められない悔しさ、納品の直前でキャンセルされる腹立たしさ、手術を成功させたにもかかわらず長くもたせることが出来なかったやるせなさ、職種は違えどもそういう悔しさや無力感は戦いの中で必ず訪れます。
 私はそうした妥協しないで努力している(一時的)敗北者を見下げる人間にだけはなってはならないと思っています。もちろん子供達にもなって欲しくありません。相手軸で考え感じることの出来る優しい人間になって欲しいと思います。「お前のことは知らん。ワシがやりたいようにやる。黙って損してろ」と人を見下げることによってしか自分を立てることが出来ない人間にはなって欲しくないと思います。飢えた鬼達の跋扈する餓鬼界の住民にさせてはならないと思います。
 やはり相手の立場を慮りながら、品性のある行動を大人がとり、子供にその背中を見せていきたいですね。
 中学校や高校でも我が子に阿るあまり、自分のことを棚に上げ教師を激しく糾弾する保護者が依然多いと聞きます。教師も教師で激しく糾弾されることを恐れ、事無かれ主義に走っていると聞きます。
 私も十年程中学校と高校で教諭をしておりましたが、経験上子供に阿り第三者を一方的に糾弾するような親の子は必ず問題を抱えることになります。当たり前と言えば当たり前です。親と同じように人を人とも思わない態度をとっていれば友人は出来ません。また中には年齢と共に、そんな親の態度のおかしさに気付く子供もいます。親に愛想を尽かし言うことを聞かなくなり、最終的には親を平気で罵倒するようになった子もいました。高校で転校したものの続かず辞めてしまい、引き籠るようになった子もいました。因果応報と言えばそれまでですが子供は気の毒です。やはり周囲の大人、とりわけ保護者が相手軸に立った品性のある行動をとることが大切だと思います。「人を生かす」親の背中を見て育つ子供がどうして自分さえ良ければいいと考える人になるでしょうか。おそらく子供も当たり前のように「人を生かす」思考をするようになると思います。
 私達大人自らが、他者との関係の中で笑顔を引き出せているか、感謝の気持ちを持てているかを日々確認することが子を健康的に育む要諦だと思います。Win-Loseの思考パターンで日常を送り、子供の環境を親自らが悪くするのは滑稽を超えて罪と言えるでしょう。
 松田さんの文章を読み、深く共感すると共に、当園が出口目標としている「弁えと集中力をつける」ことの大事さを改めて確認した思いです。 <了>