園長コラム2月号『適時教育実践の意義』
子供達は日々読み書き算盤音楽体操に取り組み、成果を上げつつあります。
読みは「百花繚乱」「一衣帯水」「千紫万紅」などの四字成語、「我が身をつねって人の痛さを知れ」「読書百遍意自ずから通ず」などの諺に親しみ、毎日声に出して覚えたそれらを言っています。「幼児にとって漢字の方が分かりやすい」という石井勲先生の見解は子供達の実態によって証明されています。楽しそうに漢字仮名交じり文の絵本に集中し取り組む子供達の様子を見ると改めて漢字で伝えることの意義を感じます。
また、子供のうちに質の良い日本語を何度も音読し、身体感覚になるまでにしておくことの大切さは『声に出して読みたい日本語』で有名な斉藤孝氏もおっしゃっていましたが、質の良い日本語の大量のインプットがあって質の良いアウトプットが出来るというものです。質の良い日本語を身体感覚として宿す子供と貧相な語彙で生活する子供の思考は決して同じであるはずがありません。人は言葉で物事・世界を捉える生きものだからです。
現代使われている言葉の中にも素晴らしい言葉はありますが、特に古文・漢文はリズムも意味も洗練されている言葉が多いです。『論語』はその最たるもので、企業の経営者の多くが愛読している位です。江戸時代の子供のように現代っ子が『論語』を読むのは難しいのでしょうか。確かに意味も理解しながらとなると難しいと思います。しかし音・響きを味わうだけなら誰でも簡単に出来ます。特に先入観の少ない幼児は白文の漢字(形)を見てスラスラ詠じます。幼い時は意味を理解する必要はありません。身体感覚として取り込まれた『論語』やその他質の良い言葉が思春期を過ぎる頃に立ち上がるのです。自身の体内に取り込まれた言葉の多くが自分の人生を照らす灯り・師となり人生の重要な場面で正しい方向を示唆してくれるのです。身体感覚にまでなった古文・漢文が高校以後「単なる受験のために覚えるもの」を超え、「生きた灯り・師」といったリアルなものに解凍されることを密かに期待しています。
書きでは棒線一本から始まり次第に複雑な仮名へ移行していきます。幼稚園でのこの活動は字を美しく書くためのお稽古ごとではなく自学自習の姿勢・集中力の涵養が目的であるため、自ら集中して取り組めていさえすれば、先生から褒めてもらえます。
珠を数え、ゲームのように展開する算盤も論理的思考を求めるものでなく、遊びのうちに自然と身に付くよう工夫しています。それも書き同様集中して取り組む姿勢を身に付けるものであり、小学校の先取り学習とは考えていません。一見、小学校の算数の授業に見えるかもしれませんが、目的は自学自習の姿勢・集中力の涵養なのです。
音楽や体育もそれぞれ基本的なカリキュラムを作成の上、子供達の状況でそれを時々見直しながら日々行っていますが、これらの活動の総合的目的は「(生まれ持った)運動神経や自己学習能力及び自立精神を最大限に高める」ことと「社会の中での役割を考え自ら行動出来る力を育む」ことにあります。
運動神経や音感などは目に見える成長として分かりやすいのですが、メンタルな成長はなかなか目に見えるものではありません。それでも子供達はふとした瞬間に、その成長ぶりを見せてくれることがあります。
私は烏合の衆では意味がないと常々思っています。友達・仲間を想い、顔・声・個性をきちんと認識し合って、友情関係を深めていくような在り方を彼らが今後の人生で構築していくことを願っています。そこでの誰彼は代替がきかないかけがえのない存在です。顔の思い出せない友人(たまたま同空間にいた)○○でなく、先述の三つを伴って思い出せる□□君△△さんです。そのための第一歩として友達を認める、頑張っている友達を見て心から「すごいな」と驚嘆出来る感性は非常に大切と思います。その感性を持ち成長すれば、大人になっても豊かな人間関係を構築出来るのではないでしょうか。多少合わないところがあっても部分部分で尊敬し合える関係を創っていけるように思います。その感性は今後も様々な活動の中で発露すると考えています。その瞬間に立ち会える私達は幸せです。今後も子供達同士互いが互いをより認められる集団になるよう日々の実践の洗練を図りたいと思います。