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代表コラム1月号「学校教育関係者に必要な姿勢・態度」

 幼稚園の目的として、学校教育法では「義務教育及びその後の教育の基礎を培うものとして、幼児を保育し、幼児の健やかな成長のために適当な環境を与えて、その心身の発達を助長することを目的とする(第3章 第22条)」と明記されている。
「義務教育及びその後の教育の基礎を培う」ことを(広い意味での)「遊び」を通して実践していくのが幼稚園のやるべきことである。幼稚園教育要領総則にあるように「幼児期における教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なもの」である。
 幼児期の教育を考える時、そこで規定されている内容に新鮮さはないもののテーマとしては深く、難しい。私達幼児教育者がその遠大な目的を完遂するためには、「当たり前の事を当たり前のように実践する実行力」「学術的見地からの分析」「原理原則に基づいた日々の実践」はもちろん、それに加えて子供達のイレギュラーな行動・発言に対し余裕と情愛を以て楽しもうとする姿勢も必要と思われる。
 先日音楽課程の中で指さし(リズムに合わせて色の付いた部分を指す活動)に取り組んでいたときのことである。ある年少児が本を逆さにしやろうとし始めた。担任はニコニコしながら様子を見守っている。するとその子は本が逆さになっているにもかかわらず正確に指さしをしたのである。「すごい!!反対側から見るのは難しいのに上手!」と言われ満更でもない様子。調子に乗ったその子は色に合わせて吹く和音笛の活動の時、わざと違う色を吹き始めた。それでも教本と同じ音も混じる。すると「惜しいなあ、一つだけ同じ音だったね。次は全部違う音に出来るかな」とそっと耳打ちするとその子は本を元に戻し、集中して正確に吹いた。つまりその幼児にとって本を逆さにすることは自分から敢えてやりにくい状況を作っての「挑戦」だったのである。担任に自分の「挑戦」が認められ、安心感を得ることが出来たその幼児は、その後本来の活動にスムーズに戻ることが出来た。もし担任が「逆さでおかしいでしょ。きちんと置きなさい」と頭ごなしに窘めていたらそれが実現することはなかったであろう。
 ここに幼児教育の難しさがある。何もかも個人なりの「挑戦」を認めてしまうと収拾がつかない状況になる。かといって全く否定して進めるのは、アナーキーな年少児相手であることを思うと多少無理を感じる。現実的には先述のような個人的な「挑戦」を時折認め評価しつつも「本当はね、??出来たらもっと格好いいんだよ」という言葉掛けを重ねていくことになる。そうした繰り返しにより、ルールを守ることが全体の調和に繋がり、ひいては自分も達成感のある活動が出来ることを身体感覚で理解し、「ルールを守る大切さ」というものが自然と身に付くのだと思う。
 年中児は大分それが分かってきたようで、鍵盤奏の際にも勝手に音を出すようなことはしない。先日の鍵盤奏では全員の音が合った時「やったー、今合った!」とみんなで顔を見合わせて喜んだ。集中して一つのことに向かう幼児の姿はひたむきで、また彼らの創り出す静謐な空間は神聖ですらある。この状態は積極的に取り組みへと気持ちが入っている状態で、この時間を多く持つことが出来るかどうかが学校教育法で規定している幼稚園の目的を達成していく上で大きな要素となるであろう。
 繊細な観察の上で学術的見地からの分析、原理原則に基づいた日々の実践を丁寧に、情愛を以て臨機応変に進めていくことは幼稚園教諭にも求められることなのである。
 そして、そのセンスを磨くためには「当たり前の事を当たり前のように実行すること」が重要と考えている。ここで言う「当たり前」というのは、「目の前にゴミが落ちていたら拾う」「子供や保護者に会ったら先に挨拶をする」「次のステージへ上がった方がいい子供にはその環境を準備する」「人から親切にされたら報いる」「受けた質問は早めに回答する」「質の高い保育を実践するために早めに計画・段取りをつける」等々である。この「当たり前」は枚挙に暇がないものの、それを実行に移している人は意外と少ない。なぜならそこには常に「他者のために割く自分の行動・時間」というものがつきものだからだ。自己愛の強い人は、「どうして自分がそんな、人のために…」と思う傾向がある。また人付き合いにランキングを設けているような人は恩着せがましく、自分の利益に繋がる関係者には「当たり前に実行してま?す」と演出して見せるが、利益とは直接関係のない相手に対峙した時は、実行する気すら持たないようである。
「人間の器」はそこに現れるのではないだろうか?自分の利益に繋がる相手にしか誠意を見せられなかったり、当たり前に行動出来ない人間は哀しい哉、器の小さな人間と思わざるを得ない。孔子も「君子和而不同。小人同而不和。」(君子は和して同せず。小人は同じて和せず。意:君子は私心がないから、道理に順って和合しうるが、不合理なことには付和雷同しない。一方小人は私利私欲があるために、利を見ては雷同しやすく、条理に順って和合することがない。『論語』子路第十三)と言っている。自分にとって利益があろうと無かろうと誰彼に対しても、自身の持つ当たり前の基準に照らし、自己の行動を決定していくことが重要と私も考える。「私利私欲」にこだわるほど馬鹿げているものはない。どんなにそれにこだわっても金や名誉を持ってあの世へ逝けるわけではない。それにこだわり醜い死に顔をさらしてこの世を後にするような真似を私はしたいとは思わない。
 畢竟「私利私欲を超えた所での当たり前の行動」がどれだけ出来るかが「人間の器」を決定していくのだと思う。そしてその姿勢は、次世代が人格を形成する上での良い指標となるに違いない。ゆえに幼稚園教諭を含め、全ての学校関係者に必要な態度だと思う。

御調みくに幼稚園

玉崎 勝乗