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みくにコラム7月号「左脳教育?早期教育??先取り教育???」

 日頃から「読み書き計算・音楽・体操・生活」を軸に展開している当園の教育は、一見しただけだと左脳教育・早期教育・先取り教育と思われがちである。子供達は先生の合図で「ハイ!」と応え、大人でも読めない時がある漢字や諺・論語をスラスラと読み、一瞬しか見せない時計をいとも簡単に読んでしまうからである。算盤や九九に取り組む姿を見ると「幼稚園でここまで…」と眉をしかめる人もいるだろう。
 しかし当園の教育は、小学校以降の教育で履修する事柄を幼稚園のうちに修めてしまおうとするものではない。私達の目的は、それらの活動を通して情緒豊かで美醜を判断する感性を養うこと、集中力をつけること、人の気持ちを慮る惻隠の情を身に付けることにある。読みや書きもそのための手段に過ぎない。
 そもそも子供の行動原理は『楽しいか楽しくないか』である。楽しいものは何度も繰り返して挑戦するが、楽しくないものはやろうとしない。取り組もうとしない子に無理やり何かをさせようとするのは苦痛であるばかりでなく、双方の関係を悪化させるだけである。先生も仕事が苦痛でたまらなくなるに違いない。では子供が「楽しく感じること」とは何か。それは一言で言うと「出来た♪」という感覚である。かといって楽に達成出来るものばかりでは楽しくない。基本出来ることをやりつつ時々多少難しいものがある程度が丁度よいのである。例えばピアニー。楽に吹けるフレーズばかりでは、最初のうちは楽しいがやがて飽きてしまう。発声でも子供が「出来ている」という感覚でいるのに同じフレーズばかりやらされてはうんざりしてしまう。しかしそこにちょっとしたハードルを設けるとどうであろう。子供達は目を輝かせ、その課題をクリアーしようとする。吹けなかった、出せなかった音(声)が出た時の目の輝きは尊い瞬間である。更に良いのは幼稚園という空間は複数の人間(幼児)で構成される空間である。友達と認め合い高め合える空間である。その中で自分の音楽的技量が上がり、友達と一つになった感覚は形容しがたい悦びで幼児を満たすのである。そのような協働経験を通して情緒や美醜感覚、人と人との関わりや協力し合うことの楽しさ、ルールを守ることの大切さを体得していくのである。
 幼稚園教諭はその複数人で構成されるという空間を有しているのだからそのアドバンテージを活かさないテはない。幼稚園は、一部の僅かな人数で行っているリトミック教室よりはるかにやりやすい空間である。5人よりも10人、20人よりも30人の方が実践しやすい上に、効果も期待出来る。にもかかわらず、人数的な条件は充分クリアしているにもかかわらず、子供達に適した課題を与え、時折挑戦させることに重きを置いている園はまだまだ少ない。それでは幼稚園にいる時間は、偶然にも自分のレベルに合っている子供にとっては楽しいであろうが、そうでない子には退屈極まりない時間となってしまうであろう。その場合、幼稚園教諭は幼児期という黄金期を盗む時間泥棒と言えるだろう。教諭にその意識がなくても、伸びるはずの時間を無為に過ごさせてしまっている以上は時間泥棒なのである。
 冒頭でも触れたように当園の教育の柱は「読み書き計算・音楽・体操・生活」である。教諭は個々に適った環境を設定し、子供達は日々「出来た♪」の感覚を楽しみ園生活を送っている。「読み書き計算・音楽・体操」は当園園児にとっては玩具のようなものである。幼児の脳に身体に適しているからそれを柱として実践しているのであって、極端な話、情緒豊かで美醜を判断する感性を養うこと、集中力をつけること、人の気持ちを慮る惻隠の情を身に付けることが出来たなら実践の過程で覚えたことは全て忘れても一向に構わないのである。幼稚園は「わきまえ」を身に付ける所であって、小学校や中学校の学習の先取りをする機関ではないのだから。
 先日、当園の保護者が朝子供を送る際に言った一言が耳朶に残っている。「今日も楽しんできてね」と残し、その方はその場を早々に立ち去ったのである。「頑張ってね」ではなく「楽しんでね」というそのフレーズは、当園の教育への理解を如実に示す一言である。「ありがたい」と心の中で叫び、遠く見えなくなるまで礼をせずにはいられなかった。
 やはり幼稚園は楽しい所であるのが普通で、楽しくなければ幼稚園ではないと思う。今後も子供達の「出来た♪」を大切にし、より楽しむための観察、分析、解決策の模索、環境設定に重点を置いた実践を行っていこうと思う。   <了>