みくにコラム10月号 「楽しい」って…
楽しくなければ幼稚園じゃない。これはよく言われることだし、私自身もそう思います。しかし子どもにとって「楽しい」とはどういった状態で感じることなのでしょうか?
私達は「楽しい=集中して何かに夢中になっている時に感じる感覚」と考えています。実際、音楽や体操を行っている時、元気に「ハイ」と声を出し秩序だった活動が出来ている時は子どもが活き活きとしています。目は輝き、身体からも躍動感を感じます。そんな彼らのストイックに課題に向かう姿はどこか神聖な印象すらあります。ところが、おざなりな返事をしてもやり直さず、そのまま漫然と進めてしまうとどうでしょう。子ども達の目に輝きはなく、集中力を欠いた「こなし」の活動に充実感など微塵も感じていない様子が観て取れます。そのような活動はいくら積み重ねても意味がないことは容易に判断出来ます。ですから私達は「ハイ」という返事を子どもたちに求めます。最初はなかなか出なかった子どもも仲間が元気よく言っているとそのうち出すようになります。そこが集団の素晴らしさだと思います。
私達大人は「その日のうちに解決しよう」という大人の都合を捨て、彼らの成長に合った環境を日々設定し、出来るようになるきっかけを待てばいいのです。そのきっかけはどの子にも必ず訪れます。例えばそれまでかけっこで走ろうとしなかった子どもが、鬼ごっこで一所懸命タッチをしようと追いかけようものならチャンスです。「さっきもうちょっとでタッチ出来そうだったね。惜しかったね。次はきっと出来るよ。だって前よりだいぶん走るの速くなったもの」と声をかけていきます。そこで「よく走ったね。かけっこもきっと速いよ」と真剣にかけっこをさせたいという目的と直接結びつけて言うのは野暮です。子どもはそういう大人の計算を見抜きます。論理的理解ではなく、感覚で警戒します。ですので私達は子どもの「今」に思いを馳せ、心に沿った声かけをする必要があります。自分の都合計算もあるにはあるのですが、焦るあまりそれを優先してしまうと子どものやる気は引き出せないと思います。
「声かけ」の話題が出たのでもう少しこの点に触れると、短大・大学の幼児教育科の学生や若い先生の多くが「声かけ」をただするものと考えているように感じます。安易に声かけと言いますが、それは教諭がかけたという事実に自己満足するものではなく、子どもの心と共鳴するものでなくては意味がありません。ですのでタイミングや双方の心の状態が重要です。基本、出来ることは何でも子どもにやらせ、本当に困った時、答えを言うのではなくヒントを言い、自分で気付けるようそっと背中を押します。ここで得た「気付き」はその子は大人になっても忘れないでしょう。しかし安易に答えを教えてもらったことはすぐ忘れてしまいます。
例えばびちゃびちゃに濡れた雑巾で机を拭きます。もちろん机もびちゃびちゃに濡れ、とても物を置こうとは思えない状況です。そこで大人が固く絞った雑巾で拭かせるのではなく、子どもに「もうちょっとしっかり絞れるかなぁ」と言い、雑巾を絞らせます。握力がない子の場合は、握力のあるお友達に手伝ってもらいます。そうして用意出来た固く絞った雑巾とカラカラに乾いた雑巾、そして先ほどのびちょびちょに濡れた雑巾で拭き比べをさせます。すると子どもは自ら固く絞った雑巾で拭くことが有効であるということを体験的に学んでいきます。もし大人が「これで拭きなさい」と固く絞った雑巾を渡して指示するだけだったら、子どもは「どうすればいいのだろう」と考える機会を失ってしまうのです。
雑巾の例は些細な日常の事ですが、一事が万事です。子どもの「学び」子どもの「心」と繊細に向き合う教諭は、この視点を大切にします。
このことから子どもが「楽しい」と感じる園は、子どもの特性一人ひとりの感性を理解した上で、その時その時に応じた言葉かけで園児をやる気にさせる先生がいる園。ルールさえも守ることが楽しくなる園。そしてそのルールを守りながら取り組む具体的内容を持った園だと言えるでしょう。(了)