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みくにコラム6月号「朝聞道、夕死可矣」?

「朝聞道、夕死可矣(朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり)」

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 これは論語の里仁第四にある言葉です。意味は「もしも朝方に我々が当然行わなくてはならぬ人たるの道を聞くことができたら、かりにその晩に死んでもよろしい」です(明治書院 新釈漢文大系「論語」より)。原哲夫氏の漫画「花の慶次」の主人公前田慶次も好みそうなこの言葉に漢気(おとこぎ)を感じるのは私だけでしょうか。この言葉を見聞きする度に「道を求める情熱を失っていないか」自身に問いかけずにはいられません。
 そして同時に徒然草の第七段も思い出します。

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 『徒然草』第七段
 あだし野の墓地の露が消えないように人間が生き続け、鳥部屋の煙が消えないように人間の生命が終わらないのであれば、この世の面白み・興趣もきっと無くなってしまうでしょう。人生(生命)は定まっていないから良いのです。
 命あるものの中で、人間ほど長生きするものはありません。蜻蛉(かげろう)のように一日で死ぬものもあれば、夏の蝉のように春も秋も知らずにその生命を終えてしまうものもあります。その儚さと比べたら、人生はその内のたった一年でも、この上なく長いもののように思うのです。その人生に満足せずに、いつまでも生きていたいと思うなら、たとえ千年生きても、一夜の夢のように短いと思うことでしょう。永遠に生きられない定めの世界で、醜い老人になるまで長く生きて、一体何をしようというのでしょうか。漢籍の『荘子』では『命長ければ辱多し』とも言っています。長くても、せいぜい四十前に死ぬのが見苦しくなくて良いのです。
 四十以上まで生きるようなことがあれば、人は外見を恥じる気持ちも無くなり、人前に哀れな姿を出して世に交わろうとするでしょう。死期が近づくと、子孫のことを気に掛けることが多くなり、子孫の栄える将来まで長生きしたくなってくるものです。この世の安逸を貪る気持ちばかりが強くなり、風流さ・趣深さも分からなくなってしまう。情けないことです。                        (卜部兼好 著)

 

 私も40歳過ぎれば、後は誤差のようなものだと思います。自然界の悠久な時の流れから見ると人間の一生は焼けた鉄板に落ちた一滴の水滴のようなものでしょう。
 けれどもその一瞬の蒸発にも似た私達の人生も向かい方で僅かばかりの光を発することも出来ると思います。
 自分を犠牲にしてまで人の役に立つ者、後世の人に感動を与える作品を創る者、人々に安らぎを与える教えを流布する者、ある物を作ることで人々を幸せにする者…等々。その生き方は様々ですが、一瞬の光を発して散った先哲達には一つの共通点があると思います。それは、皆己の道を分かって、それに向かってストイックに努力していたということです。 私も「人はやがて死ねる。旅(人生)の恥はかき捨て」とばかりに自分がやらなくてはならない当たり前のことを当たり前にしようと思います。身の丈に合ったペースで行っていくので歩みは遅いかもしれませんが、確かな一歩を日々進めていこうと思います。
「道を聞いた」だけで「夕に死すとも可なり」とは俗人の私には思えません(笑)やはり「道」の具体化を追い求めてしまいます。これでは孔子先生に笑われるかもしれませんね。やがてお会いする時に笑われないよう、修練したいと心では何度も思うのですが…(笑)

代表:玉崎 勝乗